自閉症 渡の宝箱

自閉症の渡が、日々起こす騒動や療育についてとシリコンバレーでの起業、生活を綴っています。

社会で助け合うということ

先日某大学より、論文もどきの原稿を頼まれたのですが

最後にドラムのD君のことを、余談でまとめて書いたので、ここにもあげておきます。

障害があるからと社会から切り離すのでなくて、一緒に暮らすということ、お互い助け合えるということの話のひとつです。ちょっと文調が固いですが。

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渡(自閉症)が小学校の頃、姉(香穂)の中学校の吹奏楽のクラスで放課後にドラムを叩いていたA君という子供がいた。彼は、中学校でも有名なドラマーで、大学から、引き抜かれて、大学でも演奏していたくらいの子供である。勉強もよくできた。しかし、A君は、ドラムをおもちゃ扱いし、壊してしまうような人には、ステックを貸さないとかねがね言っていた。


ある日渡が、そのステックを借りたがった。渡は物の扱いが乱暴なので、ステックを借りれないと思っていた私は、驚いた。彼は、すっとステックを渡に貸した。渡は大喜びでドラムをめちゃくちゃに叩いていたが、ほんの少し、A君は、リズムをつけてくれたりして、大喜びになっていた。しかし、音楽の先生にみつかり、注意されステックは取り上げられた。


それから、渡が、ドラムを習いたいと毎日言うようになり、私は、1年かけて、自閉症児にドラムを教えてくれる先生をみつけた。その間A君は、地元の渡の姉と同じ高校に進学したが、家庭の事情で、転校し、すみなれた街を後にして他の州で、寮生活を余儀なくされた。A君は、住み慣れた街を思い出すのが、辛かったこともあり、ドラムを叩く元気もなくなり、ずっとドラムも止めていた。高校生活の間、日々の生活に追われたA君は、自分の将来の夢を語ることもなくなっていた。渡はその間、ドラムに毎週通い、なんとか、好きなドラムが叩けるようになっていた。


数年が経ち、A君が全寮制の高校を卒業した。A君は、住み慣れた街に戻って来た。渡の母親である私は、渡がA君にステックを借りたことがきっかけでドラムを始めたこと、この手紙を送った数日後には、渡がコンサートにでることを手紙に書いて、お礼を伝えたいと思い香穂経由で、その手紙を渡した。A君が、「渡のコンサートに参加したいので、ぜひ場所と日付をおしえてほしい。」と知らせて来た。私はすぐにフラヤーとチケットを渡した。コンサート当日、彼はあまり仲がよかったと言えないお母さんと2人で会場にやってきた。渡の演奏が始まった。彼は、しっかりと渡を見て渡の叩くドラムの音に耳を傾けてくれた。

幕間になり、渡と私と香穂とで、A君のところに挨拶にいった。渡は話せる訳でもなく、A君も話す訳でもなく彼らは、仲のいい男友達どうしがやるように手の平を高い位置であわして、音を出す「ハイ・ファイブ」という挨拶をし、その挨拶は、高らかに澄んだ音を立てて、会場に響いた。A君は、香穂や私に渡の演奏をすごく感動したし、とても上手だった。と褒めてくれた。コンサート後、A君は昔、引き抜かれて演奏していた大学のドラムの先生のところに戻った。A君が幼なじみで、親友である他の男友達に初めて自分の将来を語った。

「僕の夢は、自閉症児に音楽を教えるか、自閉症児の先生になることだ。」