自閉症 渡の宝箱

自閉症の渡が、日々起こす騒動や療育についてとシリコンバレーでの起業、生活を綴っています。

自閉症って長く一緒に添い遂げてる夫婦関係に似てると思う

自閉症を克服する」という言葉に違和感を感じます。

国語辞典で「克服」を引くと、

困難に打ち勝つこと。

とあります。

息子を見ていると別に自閉症と毎日喧嘩して、打ち勝ってやる!っていうわけじゃなくて、扱いにくい自閉症という障害と妥協点を見つけながら、共存しながら一生懸命生きていると感じるからです。

戦うくらいのこともあるでしょう。けど、彼は、勝った負けたと言う判断の為に戦っているわけじゃなく、面倒な障害と時には戦う事もあるけど、それはうまく共存地点をみつけているように思う。共存地点を見つけるためにいろんなことをしているのだと思う。息子は、

「じゃ、自閉症、お前が負けな。俺が勝ったから。」

とは思ってない。これは周りの視点で勝手に克服ってなるんだと思う。

それでなおかつ一般社会とも折り合いをもつけながら、社会のルールを守りながら、社会とも共存地点を見つけている。

なんだかね。これって、すごくつながりの深い年輪を刻んでいく夫婦関係のような感じが近い気もします。

完璧な夫婦なんてないだろうけど、長く仲良くする夫婦の歴史には、パートナーの小さくて気に触る事にも腹をたてる事もあるだろうし、大きな絶対に譲れない部分もあると思う。別れたい!!と思う事もあるでしょう。おおきな喧嘩をする夫婦もあるでしょう。けど、時を重ねるうちに、少しづつ妥協もし、相手の言い分も少しづつ理解して、相手の意見も取り入れながら、うまく自分の意見も通す。小さな小さな思いやりと優しさや愛情がどんどん大きくなったりして絆が強くなる夫婦ってあると思う。そんなことをしながら、一番小さい社会単位である

「夫婦」をつくってるんだと思う。なので、顔も見たくないくらい腹も立つ事もあるけど、腐れ縁と思ったりしながら(笑)長い年月をかけて相手も大事にして、いろんな妥協点をみつけるんだと思う。そこには思いやりがあったり、愛があったりするんだろうと思う。

うまくいかない夫婦って、

「俺が勝った!」とか、「私が勝った!」っていいながら、どっちが悪いのか?とか見つけ合ったりしているような気がする。こちらの夫婦関係のほうが、勝った!負けたで克服に近い気がするなぁ。

仲のいい長年の夫婦って、まったくの赤の他人だった二人が年齢がいくにつれ、絆が深くなるし、相手との接し方もうまくなっていく。どんどん月日が経つうちに、いままで一生懸命、絆をつないで行った夫婦関係っていうのは、もう血のつながりより濃くなる感じがする。そんな感じが自閉症と息子の間にはあるような感じで、克服したというよりも近い気がします。息子は結構真剣に自閉症の症状と向き合って共存しようと努力している気がするからです。

長年連れ添ったご夫婦がいたら、「えっ?なに?」と怒られそうですが、息子が自閉の症状を出さずにうまく社会ととけ込めたときって、そんな穏やかな平和な感じです。自閉症特有の「好きな事に打ち込む」なんかをうまく使えたときも、嬉しそうだし。


さらに自閉症が持つ社会的な迷惑な症状と本人の人間性そういうものが同一視されるということはなんだか違う気がします。その人の人格自体を根底から非難するのは違うし、うまく出来た時に、克服した!っていって、ガッツポーズを取る感じも違うと思う。

最近、健常の学生にまっざって授業を受けていたり休み時間を過ごす時間が増えた息子は、やっぱどうしても「自閉症を少しでも克服した。」

と思っているように見えない。授業中は、周りの女の子のかん高い笑い声に耳が痛くなる時も前だったら、その音を消すために大声をあげて怒っていたりしたけど、今は我慢して耳をふさぐなどの手段を取ったりして工夫して自分がノイズを出さない様にしています。

休み時間もかわいい子に近寄ってなんとなく声をかけてみて、会話が通じなくて、相手がきちんと対応してくれなければ、しばらくその席を立ったりしてる。粘り強い子が居る場合もあって、その子だったらうまく会話が成立するときもある。そのときは本当に恥ずかしそうに静かに喜んでいる。

もしくは、男子学生が

"Hey! Wataru!!Wat's Up?"

と言われて、口頭言語が出にくい渡が、

"Hi! Chris!"

とかタイミングよく返事できたときに渡の顔は静かな穏やかな笑顔です。

他の人は違うのかもしれないけど、うちの息子が将来仕事を持ち、社会で自立できたとしても、やっぱり息子の場合は

「克服はちがうな」

と思うのです。