自閉症 渡の宝箱

自閉症の渡が、日々起こす騒動や療育についてとシリコンバレーでの起業、生活を綴っています。

もう2コマ、授業

きのうの夜は、渡が大好きな阪神百貨店の地下のスナックパークに行きました。

渡は、たこ焼きやうどん、ラーメンを頂き満足。うどんの食べた器も

「ごちそうさまでした。」

と言いながら、おばちゃんに返却しておりました。

おばちゃんは、すぐに気がついてくれて

「あっ、兄ちゃん、ありがと!」

といわれて、テレる渡。

けど、ありがとうの発音が悪いので、(アメリカ人みたいな感じ)ラーメン屋に返却したでは、ちょっと引かれてしまい、がっくりの彼。

大丈夫だよ。私の英語の発音よりはいいよ。


さて、今朝も早くから起き、もう2コマの授業をこなし、頼まれていたトータル5コマの授業を全て終えました。今日は出身校だったので、なんと教授が、ツアーをしてくださいました。一番お世話になり、印象深かった先生は昨年度、引退されて、

「もう知ってる先生はおられません。」

と話していて、廊下に張られた写真をみたら、なんと声楽の先生が御写真に。20年たってもまったくわかってらっしゃらなくて、びっくり。私の学科は、みんな実習に出ているらしく、校舎はもぬけのカラ。

けど、香穂にも大学を見せれたことは、とても嬉しかった。


私が学んだ校舎は完全な形では、もうなくて、大きな高いビルになっていましたが、その校舎の5分の1はまだ残っていて、香穂に見せると

「えっ、古い・・・。」

「そりゃそうでしょう。これは新しかったら、あんたちの存在はないよ。月日がたって、あなた達が成長して、今があるのよ。けど、在学中からぼろかったかも・・。」

って笑ってました。



香穂が驚いたのは、日本の学食のレベルの高さ。

教授が私たちにごちそうしてくださましたが、これは、おいしい。

香穂も

「食堂をうちの大学に送ってほしい。もっとアメリカの大学は学食は日本を見習うべき。値段も安いし。」


頂いているうちに、思い出しました。

私の頃は、学食が今より高く、運動場の脇のお弁当屋さんを利用しました。その脇の弁当屋さんは、正面玄関の反対方向にありました。なので、弁当屋さんに交渉です。

「運動場に面した塀のところまで注文をとりにくるように。私がその塀のところに、学生をつれてくるから。」と交渉したのを思い出したのです。

そのお弁当やさんに正面玄関から回って買いにいくと、3時間目の授業におくれます。ところが、運動場を斜めに横切って、その弁当屋さんが注文をとって塀の隙間からお弁当を渡せば、授業には余裕で間に合う。


お弁当屋さんも閑古鳥が鳴いていたので、おばちゃん達は、すぐに協力体制に。数週間したら、運動場の端の塀には、学生がむらがりました。

塀は開かず門になっていて、私が少し門をよじ上れば、門の上から、大量注文の弁当を受け取ることも可能です。

大学の学食の4割引の値段で食べれた当時。あっと言う間にむらがった学生に学生科が気がつき、

「誰がこういうことをやったのか?」

という話になり、学生科の人に私はこっぴどく怒られました。けど、

「じゃ、学食の量を増やしてほしい。それと、値段を下げてほしい。(うちの大学は、最低でも550円お昼ご飯に要りました。当時にしては高い。)男子校のようなどんぶりメニューをふやしてほしい。それらの条件を飲んでくれないとこれは今更みんな辞めない。」

と言ったのを覚えています。

この習慣は、数年前まであって、みんな塀のところで弁当をうけとっていたものの、弁当屋さんが、お年しで引退した為に弁当屋さんも閉鎖。事務の方に

「あぁ。あの習慣はゆみさんが作られたのですね。最後の数年は、ついに大学側のあの門をあけたのですよ。」

と言われました。私は思わず、

「あぁー!!まだ皆さんやってたんですか!たしかに、あそこのほかほか弁当は、安いし量もありました。私は大学が終わってから、部活があったので、普通の量じゃ足りなかったし。」

「先生方もよく買われてました。」

なんだか、ちょっとうれしかった私。

香穂は横からぼそっと。

「昔から、交渉するのは好きだったんだね・・」



さて大学を後にして、実家へ。

久しぶりに会う両親は、歳とった、という感じです。

明日は、午後から東京にむかい仕事をこなします。