最近、買い物してて見つけたもの。
等身大のユニコーン。シリコンバレーには、ユニコーンと言われる会社が出てくるといわれているますが、それでもこんなもの売らなくても。きしょい....。買う人がいるのか?と思って、笑った。
お姉ちゃんの香穂が、事務雑用仕事を片付けるために先週末に帰省してくれました。
渡は、もう大興奮。数日前から、聞いていたのですが、メッセで、
「帰ってくる!」
と何度も言い、指折り数えて待っておりました。
さて深夜に帰宅した娘。
空港に迎えに行って大喜びの渡。
朝、早くから起きて、一緒に朝ごはん。
がっつり食べて大喜びでした。けど、この時は、まだこの日1日が怒涛の日になるとは思わず...。
大量の事務仕事を終えて、夜遅くなりやっと夕飯と思った時は、親子でヘロヘロです。夕飯難民になるかなと思っていたのですが、なんとか空いているレストランを見つけて、ごはんにありつけました。
こんなものをいただきました。
食べながら、会社のことや仕事のこと、通勤のことを話していて、今の家から仕事まで片道2時間半かかるので、なかなか大変だと話しておりました。すでに入りたい家は決めていて、そこがあくまで待つんだよねーといっていたら、渡が
「僕が、絶対に引っ越しは手伝うから」
とお姉ちゃんに売り込みを開始。こうやって箱を運ぶんだとジェスチャーで話しまくる。
「じゃ、お願いね」と言われて、渡はもう大喜び。お仕事頼まれるととにかく嬉しい渡。
私だったら。兄弟の引っ越し手伝いを頼まれても「えっー。めんどくさー」と思うけど、なんだか仲良しだねぇ。渡はとくにお仕事を頼まれるのが大好きです。
次の帰省は、IPP(個人プログラムプラン)かなと言いながら、次の日お姉ちゃんを空港に送り届けました。
さて次は5月だね!
2017年5月10日(水曜日)濾胞性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫B細胞)の診断を受けました。ステージはⅣ(末期)でした。グレードは2でした。
合計8回の免疫治療が終わり、2018年4月に先生が
「由美は僕の患者だけど、これからは、君は僕のがん患者でないからね。再発は医学的にはあるといわれているけど、僕の患者で、このがんを再発した人はいない。もし15年後、20年後、由美がガンになったとして、あなた自身がそれを再発といいたければ、再発になるけどね。僕は君は再発しないと思うよ。」
といわれて、
「がんだからというのではなく、これからは老いていく。これは誰もが老いるのだけど。健康でいないとゆみには、渡もいるし。運動はがんばってつづけてね。薬は秋までは、飲んでね。」ということでした。
そうかー、なんか目標にしないと私はサボるだろうなー。と思い、2年後に5kmマラソンで年齢別グループで優勝しよう!と思い、練習することにしました。また走りはじめました。けど1ヶ月後の5月に年齢別グループでの優勝達成。マッシュルーム・ランという地元の大会だったので、トップで走った私は、マッシュルームをいただきました。
これは小さいマラソン大会だから、達成したのだと思い、今度は大きなスタンフォード大学で行われるマラソンにも6月に出場。けど、こちらも年齢グループ別グループで目標達成。
完治後から3ヶ月後に運動の目標を達成してしまって、えっ?生きてていいの?やばくないか?サボってしまう.....と思ってしまい(笑) いまは渡と平日は毎朝40分泳いでいます。1年間は続けたいというのが今の目標です。現段階では10ヶ月続きました。
さて、このがんを経験して、私自身が元がん患者として周りの人にお願いしたいことがまとまってきました。
がんは早期発見、早期治療で治る確率がぐんと上がる病気で、大変身近な病気です。私のようながんでも治療すれば元気に生活できています。
1.子供を育てている家族の方へ(がん患者じゃない人たちへ)
とくに小さなお子さんを育てているお母さんへ。
旦那さんは必ず有給休暇をとってでも、奥さんを健康診断に行ける環境を整えてあげてください。お母さんは健康診断の予約を必ずとってください。夏の旅行、冬の旅行の計画より大事です。家族がお父さんが子供を預って、必ず1年に一度の健康診断をうけること、何よりも大事です。とくに子供がママっ子で、離れられない子供がいるママたちは検診に行きにくいので、なにをおいてでも健康診断に行ってください。がんが進んでしまって、あの時に行けばよかったと思っても、時計の針を戻すことはできません。誰かがかわりに自分のがんになってくれることもありません。がんは小さいうちにみつけると早く治りますし、体の負担も時間の負担も大変少ないです。
2.がん発見をキットを取り寄せて、がん検診をおこなうのは止める。
乳がん発見のキットを取り寄せて、がんを見つける、とかいうことは、やめましょう。
なぜなら、がんが発見されたほとんどの人は、「別件で」病院にいき、がんが見つかっています。乳がんだけがガンではないので、お寺や神社の「お参り」のように気軽に病院にいって、いろいろな検査をうけていれば安心です。若い人で乳がんのキットを取り寄せて、安心......なんていうのをやる方がいますが、全然安心じゃないですので、きちんと1年に1回は、病院に行きましょう。
3.職場の方へ
免疫治療、抗がん剤治療は大変免疫力が落ちるので、風邪などの感染症にかかったりすると大変なことになります。なので、満員電車にのせず、時差出勤ができるようにするとか、ギューギゅーにつまったようなオフィスのフロアで働かせるなどは止めてほしいです。風邪で熱があるけど、仕事で....と出勤する人がいますが、その頑張りで、他の人の命が危険にさらされることがあります。アメリカではガン患者が休むことなく、オフィスに通いながら免疫治療や抗がん剤治療をする人が多くいますが、それは熱があるのに出勤してくるような人がいないこと、時間に比較的に縛りがないこと、他の人との机の距離があること、などがあるからです。
患者さんご本人とよくよくお話して、お医者さんの意見も聞きながら、安心して治療が受けれる環境を準備してあげてほしいと思います。
4.友達からがんの告白をうけても
驚かない。感情的になって泣いたりしない。無責任に「なおるよ。頑張れよ」などといわない。さらに、治療方法に介入しないのがいいかと。専門家にまかせ、患者ご本人の命ですので、納得のいく方法を医者と話し合うのが一番です。なにかできることはある?子供の送り迎えとか、ご飯は?仕事は?などの生活の方のお手伝いを聞いてあげるといいかもしれません。私は友達とバカな話しをして笑っている時間が一番楽しかったです。免疫治療の日にお友達が昭和の時代の「遠足弁当」をつくってくれたのも大変うれしかったです。
サポートグループのサイトなどはここにありますので、アメリカでは、こういうサイトを教えてあげるのがいいと思います。
5.家族の方
治療中は患者本人が一番不安です。精神も安定しません。不合理なことなどを口走ったりすることもあると思いますが、「甘えるところが、家族しかない」人が、そういうことを言う場合が多いので、やり過ごしていく手段を探しだしておくといいと思います。
あと患者本人の体調の変化は、経過観察などはせずに、すぐに病院と連絡をとり、手当をしてもらうのがいいです。なにもなければ、なにもなかったで安心ですし、免疫力が落ちている分、体調が悪くなると転がり落ちるように悪くなる時もありますので。
以上は思いついたものです。
私の場合、がん発見から完全に免疫治療がおわるまで1年。薬の服用などは1年半でした。この間、体はなんとなくだるいです。がんの種類や発見時期によってもっとかかる人もいれば、短い人もいるでしょう。けど、免疫治療もそうですし、薬の服用中もなんとなく体はだるく、疲れやすですし、なにか新しいことをしようという気力が湧きにくいです。はたからみると、だらだらとした生活になってしまいます。チコちゃんに見つかったら
「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」
と怒られるようなぼーっとした感じになります。暖かく見守ってあげてください。
さて私の闘病記はこれでおしまいです。
同じようながんの方でもっと話しが聞きたいと言う人はどうぞ、ご連絡くださいませ。
私の体験談でよければ、いくらでもお話ししますので、どうぞ!
ということで、サバイバーになってしまった私。 よし!元気に生き抜くぞ〜!!
2017年7月13日の木曜日から、週に1回スタートした私の免疫療法。毎週木曜日の朝8時には病院に行き、腕に点滴の針をいれられて、1回に3袋ほど生理食塩水?か何かに混ぜられた薬を投入します。最初は8時間は掛かっていたこの点滴。行くたびに、どんどん点滴を入れる速度が上げられて、6時間で終わったり…とかなってきました。速度が上がるたびに、なんだかしんどさが増している気がして、心臓がドキドキすると思い、看護師さんに「時間は1日とってあるので、ゆっくりいれてください。仕事も大丈夫です。」とおねがいしました。けど、4回目の点滴の8月3日の治療のあと。この日の点滴は4時間半とかで終わってしまって、おわってから、ずっと心臓が痛かったのですが、夜中に最大に痛くなってきた。
さてどうしたらいいのか?困ったなと思ったけど、通常、どういう動きをすればいいのか?がわからず、まずは看護師でキモセラピーのライセンス(抗がん剤治療ですね。免疫療法も医学的には抗がん剤治療と同じ扱うになります)を持つお友達のところに電話。
彼女がテキパキを指示をしてくれました。
とにかく治療中なので、心臓が痛いというのは、非常に危険なこと。すぐにいつも免疫治療を行なっている病院の救急に行くこと。などが指示されました。
そうかー。緊急かー。高いんだろうなぁ。と思いながら、おろおろしていると、お友達も病院に向かうので、病院で落ち合いましょう。これは危険かもということで、香穂も参加というか香穂に運転してもらって連れて行かれる。
私はお友達がたまたまキモセラピー(抗がん剤を扱えることができる看護師)のライセンスをもっていたのですが、やはりこういうお友達がいなくても(笑)、免疫治療中、抗がん剤治療中は、体調が少しでもかわったら、緊急にいくというのは必須の行動のようです。
朝にお友達に電話したので、そのまま朝に病院にいきました。とにかく免疫治療中は抵抗力がよわるので、すぐにマスク。院内感染をふせぎます。
私が免疫治療中だとわかった瞬間に、もう看護師さんが複数、アリが砂糖にむらがるかのようにあっという間に私の体にむらがり、えっ?と思うまもなく、両腕に腕に針を刺した。右手からは採血の針。左手からは、点滴を打つように針をさしています。それで違う看護師さんは、私に患者タグをつけている。他の看護師さんは、あれよあれという間に熱と血圧を測ってるし。この間数分。
すぐに緊急の部屋に通されて、着替えさせられ、あっという間に患者のできあがり。
管だらけになりました。
いろいろしらべまくりましたが、なにもないとがわかって一晩病院にいて帰ることになりました。どうも私の血管は昔から他のひとより細いので、それも原因のひとつではないかと。とにあく。「あー。どれだけ請求が来るんだろう?」とおもいましたが、どうもがん治療の最中の変化は、私の保険の場合は全てカバーする模様でした。
すぐに先生とのアポイントメントになり。次からは、予防のためにおこなう免疫治療(やることは治療と同じ。)は間隔を開けて行われるので、絶対に早く薬をいれないことと、針はベービー・ニードルという一番細い針を使うことが決定されました。
<この治療時期に回りができる配慮>
免疫治療中は、とにかくけだるさがあります。抗がん剤は使ったことがないので、わかりませんが、1日椅子に座っているのがハードな日があります。それで、免疫治療を打った日は、元気なのですが、その次の日に薬が抜ける頃に、疲れがどっとでてくる。なんか興奮剤が抜けるような感じです。カフェインきれたーみたいな感じ。
免疫がおちてきているので、疲れやすい気がします。もし回りにがんの治療をしている人がいたら、回りができることは、下記のようなことです
1.水疱瘡の人が自分の家族などにいたり、水疱瘡の人に会ったりしたことがある人は、2週間は、免疫治療患者には会わない。
2. 免疫力が弱いので、軽い風邪でも風邪などの症状がある人は、近寄らない。お見舞いに行かない。(私のがんは、亡くなる場合は、がんで死ぬよりも、感染症で肺炎になったりで亡くなるケースが多いです。)
3.職場では、満員電車に乗せることはないように(感染症予防)
4.本人の意見を聞きながら、あまり人が密集していない場所で、仕事をしてもらう。
グループで顔を向かい合って座る席ではなくて、はなれたところなど(ただチームの仕事をしている場合は、むずかしいので、あくまで、本人の意思と医者の意見を参照に)
5. お見舞いには、子供などをつれていかない。(患者の子供などではなく。お友達のお見舞いの場合は、自分の子供をつれていかない。)子供は意外に病気を運んだりしますので、行く場合は、なるべく会いたい人が一人で行くようなのがいい感じがします。免疫治療薬をうっているときに子供の相手は結構ハードかもです。
6.免疫治療薬を打ってしばらくはぼーっとしますので、大きな判断がいるようなことをすぐに判断しろとせまらないこと。とくに家庭や子育てのことなどは、日常のことですが、仕事のようにルーティン化できるものではないので、判断がどうしても遅くなる。
以上のようなことが、思いついたことです。患者側からも、回りからもお互いにこのようなことを発信し、みんなで考えながら、治療中を過ごすのが理想なのだろうな。と思います。お友達、ありがとう!
早朝、渡とプールにいってきました。平日の我が家の風景です。渡は4時50分に起きて、家のリビングと廊下、自分の部屋の床を綺麗に磨いて、プールの用意をしてから私とプールへ向かいます。
更衣室に到着し、シャワーをあびようとすると、なんと暖かいお湯が出ない。水のシャワーです。えっ....どうしよう...と思ったけど、プールに入る前にはシャワーというのは、幼稚園でも習うことだし。と思い、エイヤ!でシャワーを浴びてプールへ。しっかり泳いだのですが、やはり冷たいシャワーはお腹にきて、1日お腹が痛かった。
夕方、仕事を終えてから家に帰ったら、どうも渡も同じで、お腹が痛いらしい。
なので、夕飯は二人で、向かい合って二人とも祖母(渡からみると、ひいおばあちゃん)が作ってくれたはんてんを着て、暖かいにゅうめんを頂きました。質素な夕飯。あぁあーやらかしたなぁぁぁ.....と思いながら二人で「おいしいねぇ。おいしいねぇ」と食べるにゅうめんは、むちゃくちゃ美味しかった。あぁ。幸せだー!幸せだーー!!と思った夜でした。
2017年5月10日(水曜日)濾胞性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫B細胞)の診断を受けました。ステージはⅣでした。グレードは2でした。
先日の告知から、まだやり残した検査がありますので、それをこなします。私にとって一番の鬼門だった骨の一部を取って骨までがんが浸潤していないかという検査もしました。検査結果は見事にアウト。骨までガンが浸潤しておりました。ここで正式に、末期ガン患者確定でございます。けど、この検査、痛いという先入観がありすぎて怖かった気がする。で、娘の大学院のお友達に会うことがあり、彼も骨の一部をとる検査をしたことがあるという話で、「いやーあの骨を取るの嫌だよね」と子供のように娘の友達に散々愚痴る私。けど、今思えば、麻酔がきいてるので、精神的に怖がってしまって痛かっただけの気もします。
他にも様々な検査をうけ、保険会社が免疫治療薬を使っていいというお達しが届き、やっと告知から2ヶ月後の2017年7月13日。免疫治療が始まりました。
免疫治療を受ける前に、告知の日や検診の日に先生や看護師にリクエストすれば、免疫治療を受ける部屋(Infusion center)は見学させてもらえます。私はリクエストしなくても
「ねぇ、見る見る?綺麗だよー。先日、リニューアルしたのよぉ。椅子も新しいものが入ったからさ!」といわれて、見せてもらいました。免疫治療も医療の世界ではキモセラピーといわれて、抗がん剤治療の一部にはいります。
Infusion center(抗がん剤をうつ部屋)と呼ばれる部屋の見学説明としては、皆さんが普段着で来ていることも拝見しましたし、食べたいものなども何をもってきてもいいし、何をいつ食べるか?なども制限もありません。好きなお菓子をもってきてもいい、好きなだけ食べてもいいということでした。Macbookを持ってきてお仕事をしてもいいし、本読んでもいいし、音楽きいてもいいし。とにかく、部屋をでなければ、何をしてもいいということでした。天国。
椅子は、リクライニングできて、ベットにもなり、シート自体に暖房が入ります。熱ければ消せて、温度調節ができます。自分にかけるシーツも温められたものが、かぶせられます。点滴するので、体温がさがるからの配慮じゃないかな?と思いました。大部屋のような部屋で、大きくて綺麗なお手洗いもあり、窓の外にはこんなに綺麗な庭が。この庭を眺めながら、免疫治療をするのねーと思っておりました。
ベットは眠い時はカーテンを閉めてしまえば、隣は見えません。
免疫治療開始前は、まずはAcyclovirという薬を数日前からのみはじめます。これで感染症などを防ぐようです。日本の倍量のむので、結構だるい…。このお薬とはこれから約1年のお付き合いになります。
あと、気をつけないといけないことは、感染症。特に水疱瘡が罹患し時は非常に危険なので、とにかく水疱瘡にはかかるなと。それだけと強く、強くいわれました。
さて、免疫治療の前日です。私はこの免疫治療を通院というとなんか暗いなーと思ったので、「遠足」と呼ぶことにし、トレダージョーや日本のスーパーにいって大量のお菓子を買って臨みました。あとは、7時間以上かかる点滴治療に耐えれるように本とiPadを準備。iPad はサポートグループからいただいたものです。ネットもあるので、メールもできるそうです。お昼ご飯は、部屋からでれないので、娘が病院のカフェで買ってきてるれることが決定。彼女もつきそっくれることになりましたが、渡のおかえりの時間には、バトンタッチで開発リーダーがきてくれることになりました。お仕事の報告も兼ねて来てくれるということで、もう一安心。
さて、当日。病院に到着。Infusion Centerにいって、自分が座りたい好きな椅子を選びます。腕を温めて血管がでやすくして、それから点滴用の針が刺されます。
アレルギーどめのお薬を飲まされます。私がうけるリツキサンというお薬は、血液のがんの人たちにはよく効く薬ですが、アレルギー反応が出る人がいるそうです。それを抑えながら投薬しないといけない場合もあるとは説明で聞いていました。さらにアレルギー反応が抗ヒスタミン剤でも収まらない場合は、この治療は諦めて、他の治療に移るということでした。なので、第一回目の治療は、非常に大事。しっかりとみんなで目を光らせてうけるという感じです。
アレルギーの薬を飲まされて、一気に眠くなる私。もともと健康体で薬もあまりのまないので、薬が効く効く。椅子にも暖房がついていて、ほかほかしてて天国。こんな感じで治療をうけるのだけど、もう目がとろとろ。
こんなに気持ちいいんだったら、ずーっと治療していたいと思うほどです。
すでにアレルギーどめ薬がきいて、眠くて起きていることは不可能です。ふわふわしていて、いやー寝ていいんだ、幸せ、幸せ。いままで多動の渡を育ててて、どれだけ寝てもいいよ。なんていうことはほとんどなかったので、もうこれは神様がくれたおやすみの時間だと感動するくらい、うれしい。寝よう!寝よう!!
娘に「アレルギーがでたら、すぐに看護士さんを呼んでね」と伝えて、「わかってるよぉ。そのためにいるんだし」と言い返された言葉が最後まで聞こえない…。もう爆睡…。治療のこの部屋には、付き添いは一人しか入室はできないので、娘の携帯にテキスト連絡がはいって、お友達がいれかわりたちかわりお見舞いにきてくれたのだけど、とにかく目が開かない…。震えるくらい眠い…。ほとんど誰とも挨拶できずです。きてくださった方、ごめなさい。しょうがないので、もう抵抗しないで、寝ているとしばらくすると頭が痒くて目さめた。とにかくかゆい。無性に痒くてしょうがない。
目を覚まして娘に
「あのさ。今朝、頭あらってきたのに、頭がかゆい。どうしたんだろう?」といったら、娘がすぐに
「だめだ。アレルギー反応がでたんだ!!!!」といい、すっとんで看護士さんを呼んでくれました。看護師さんもあわてて「どこどこ?」とみて
「頭ね」といっていたけど、顔や首などには出ていないので
「じゃ、今、点滴で入れている分のお薬がおわったら(薬は何袋かにわけて体内に注入する)一旦止めて、アレルギーどめの薬剤(抗ヒスタミン)を今度は点滴で入れましょうね。」となりました。看護師さんが私のところからはなれて、アレルギーどめのお薬を手配している間、なんだか背中もかゆい。かゆい、かゆい、かゆいーーーとなってきました。
娘に
「背中もかゆいよ」といったら、見せてみぃ!といって、Tシャツをめくりあげて背中をみてもらったら、もう背中に蕁麻疹のような薬疹があったそうだ。なんだか、ハイヒールで女の人が歩いた後のアカデミー賞のまだらなふみつけられたレッドカーペットか?という感じで赤かったそうだ。また娘がすっ飛んで看護士に
「母、背中にもすごくアレルギーが出ました!」というと今度は複数の看護師があわててやってきて、すぐに投入しているリツキサンのお薬を切ったので、警報音がなりひびきます(大した音ではなかったはずだけど、半分眠っていた私にはそう聞こえた)バタバタとすごい速さで看護士さんが薬を入れ替えて、今度はアレルギーどめ(抗ヒスタミン)注入。
「えっ?もうあの薬うてなくなるの?抗がん剤にかわるの?治療のスケジュールもかわるの?」と焦りまくる私。娘もそれを察して、
「これだけアレルギーがでたら、今後はどのようにな手順で進むんですか?」と聞いてくれました。看護士さんたちは
「担当医には、連絡をしましたので、こちらにくると思います。それで、このアレルギー剤が効けば、このまま治療をすすめますが、きかなければ、一旦治療は中止です」とのこと。
いやーアレルギー止め効いて!お願い!と思うけど、睡魔に勝てず。もう寝落ちするゥゥゥとおもっていたら、
「あっ。すごい背中、色がおちてきた。アレルギー反応がなくなってきている。」という娘の声が遠くに聞こえる。眠い、だめだ。とにかく大丈夫そうなんだということがわかると眠くて意識がなくなる。数十分だったと思う。看護師さんに起こされて
「アレルギーどめ効いたよ。」といわれて、先生もすでにいらして
「普通にあることだし、想定内のことで、これはもう大丈夫。きっちり見ていきながら引き続き、リツキサンをいれていきますので大丈夫だよ。」ということで、にっこりわらってくださって治療続行。
お昼の12時前にはなにごともなかったかのように、治療はおだやかに行われて、娘が
「ご飯を買いに行ってくるねー。何がいる?」
と聞いてくれました。サンドイッチをいただきました。お昼から、底なし沼に足を取られるような睡魔はどこかにいき、元気になってきました。娘とも話せるようになり、大学院に通っている頃にあった話や、大学の舞台の話など、他愛もない話をしていたら、おやつの3時になりました。点滴を始めて6時間が経過。開発リーダーが病院についたというテキストが。香穂とタッチ交代です。
「渡を迎えにいって、私と渡のご飯を食べ、プールにいってくるね。なんとなく、ママがなにかあるのは気がついてそうだから、ちょっといろいろ渡の話を聞いてガス抜きしてくるね!」
別に渡がそんなに話せるわけではないのだけど、お姉ちゃんには少しづつは、話そうとするので、よろしくねーとお願いして、入れ替わりにリーダーが入ってきた。会社であったことや連絡など大事なことを報告してくれて、あとはリーダーも病室で机を椅子を提供されたので黙々とコードを書き始めて、私はiPadで漫才を見る。
お手洗いなどへは看護師さんにいえば点滴の電源をぬいてくれて、点滴を釣った棒を一緒にもって歩いてお手洗いにも行けます。なので、あまり困ったことはありません。テレビドラマのように、すっごいシリアスな顔色の悪い病人が、死にそうな顔をして抗がん剤をうって吐く….みないな人もおらず。みんな付き添いの人と楽しく何か話したり、看護師とはなしたりしています。一人でやってくる人も多く、PCやスマホさわって数時間で帰ったりとか、どんどん人が入れ替わり立ち替わりやってきて、点滴しながら看護師と歓談して帰っていくという感じです。この部屋で治療を受ける人たちはたぶん、みなさんガン。若いかわいい女の子も彼氏ときていました。すごく楽しそうに二人で話しておりました。こんなにたくさんのがん患者がいるんだーと思いました。みなさん、どなたも元気。老人の方でカーテン閉めて、ずっと寝ていた方もいましたが、基本この部屋は、どこかで見た風景の部屋です。そうです!街の元気な喫茶店のようでした。お茶やコーヒーなどは、その場で無料でのめますし、私は持参の水とお茶をのんでいましたし、お菓子も食べてました。違いは、ベットに寝ているもしくは座ってる(ベットにも椅子にもできますので)人の腕から管がついていて、その管の先に透明な袋がついている。それだけです。
けど、眠い…。点滴後に仕事できますよといわれていましたが、いや、無理です。まだ眠さが残っていて、いつものような頭のキレはありません。
来週から3週間にわたって1週間1回この部屋にやってきて、治療は終了。あとは2ヶ月ごと8ヶ月ちかくかけて、今度は予防のための免疫治療を行います。トータル1年の治療ですね。
道は長いけど、ずっと入院するわけでもないので、慣れれば、すぐに快適になりそうです。
<この頃にあったらよかった支援>
インフィュージョンセンター(免疫治療)の初日は、やはり誰かと一緒に行った方が吉と思いました。病院によって違うと思いますが、大抵のアメリカの病院は、つきそいは一人まではできるはずです。何人できるか聞いて、私のように初日にアレルギーが出る可能性がある人は特に付き添いをおすすめします。頭や背中の見えないところに出始めると、看護師に伝えるのが遅くなります。アレルギーはとにかく1分でも早く看護師に知らせて手当してもらうのがいいので、「我慢する」なんていうのはもってのほかですし、すぐぞばに看護師がいても、私のように眠くなってしまっては、なかなか話すのも難しいです。
あと、病院の送り迎えと、お昼のご飯を買いに行ってくれる人。日本だと、病院で出そうですね。さて、また来週から3週間にわたって、治療のための免疫治療がおこなわれます。
きのうサポート団体について書きました。
ここに書き忘れたのですが、Oncology(腫瘍科)の看護師さんもサポートグループはたくさん知っています。なので、「送り迎えがうまくいかないので、だれかサポートグループをしらない?」とか、「不安なんだけど、がんの人たちのサポートグループ知らない?」とか、「洋服の肌ざわりのいいものを紹介してくれるようなグループはないか?」等々なんでも聞いてみてください。彼女たちはこの世界の知識の宝庫みたいな人たちですので、いろいろ教えてくれると思います。ぜひぜひどんな小さなことでもこのOncology(腫瘍科)の看護師さんに聞いてください。私は、治療する時の服装まで聞きました。
さてさて。
告知があってから先生からは、「免疫治療を行う。4回の治療のためと、4回の予防のため」という話がありましたが、この免疫治療を保険でカバーするということが認可されないと治療はおこなわれないとのこと。なので、ひたすら保険会社がこの治療をカバーするということを認めるまで待ちます。私の場合、この保険会社との交渉を担当看護師さんが担ってくださって、必死で交渉してくださいました。この交渉が終わらないと治療は始まりません。待ち時間になりました。
ではこの免疫治療というのはなにか?という話から。
私は、お仕事でご迷惑をおかけするであろう方や、渡の面倒を見てくださる方等々に
「実は、私は悪性リンパ腫という血液のがんで。普通は10万人に数人にしかかからないので、あまり知られてないがんなんですが…」というお話をしました。この頃、私から話を聞くとみなさん驚かれて、泣かれる方もいて
「大丈夫だよ。私、死なないから」と慰めるのが大変でした。うーーん。ガンなのは、私なのだけど…。(笑)珍しい病気なので、わかりにくいので、わかってもらおうと思って焦ってしまって、最初に数値などを持ち出すのは良くないということに気がつきました。驚かれるのも想定外だったので、まずはどうしたら、私が治るかの説明をできるかと考えました。免疫療法(英語ではimmunotherapy)という言葉もなんだか、あまり聞いたことのないような言葉で、効き目も少なさそうな言葉に聞こえるのではないか?なんとなくおまじないのようで、本格的な治療を拒否してるように聞こえるのかな?と思い始めました。抗がん剤というのは、いままで多く使われてきていますので、理解もできますし効き目がありそうです。まずは、この治療方法を誰でも理解できる言葉にするのがいいのでは?と思い、いろいろ考えて、こういうストーリーを話すことにしていました。
私の免疫療法という治療法の説明
まずはみんなが学んだ小学校のクラスをイメージしてください。
クラスには、必ず一人は行動がよろしくない子がいるものです。その子の名前を
仮に脳天気君にします。能天気くんは、どこのクラスにも必ずいるわんぱくで、いたずらっ子。けど、いつもはしっかり者のかわいい「ケアリングちゃん」という女の子の言うことならよく聞いて、普段はクラスではケアリングちゃんの指示のもと、いい子におとなしくしています。これでクラスは静かで楽しく平和を保っていました。
ところがケアリングちゃんがある日病気になってしまって元気がなくなり、クラスでは、なにもできなくなってしまいました。ケアリングちゃんがしんどくなって、なんだか病気で話すこともできなくて、うごけなくなってしまったのです。ケアリングちゃんはクラスの中で、能天気くんの悪い行動を怒ったり、なだめたりをすることができなくなりました。だれにも注意されなくなった能天気くんは、クラスで暴れたい放題。クラス全体が疲弊して、うまくまわらなくなりました。
この疲弊してしまったクラスが、今の私の体です。
能天気くんというのは私の血液のがん細胞のこと。がん細胞というのはどの人も持っています。どのクラスにもわんぱくな子供が存在するように。ケアリングちゃんというのが、免疫細胞です。この細胞があるので、普段はがんを発症しないでいます。免疫細胞がケアリングちゃんのようにがん細胞の能天気くんをなだめてくれていたのですが、今は力がなくなってしまったので、能天気くんというがん細胞が私の体に増え暴れています。なので、今から受ける治療は「ケアリングちゃん」を体内に大量に作りだし、能天気くんの動きを元のクラスの時のように抑えること。元の体(元のクラス)に戻すこと。それが免疫治療です。
抗がん剤治療というのは、この能天気くんを殺してしまうこと。そのまわりにある疑わしい生徒も一緒に殺してしまうのが抗がん剤治療です。
局部にできたがんの場合は、この抗がん剤治療のほうが有効な場合が多いと思います。
以上が考えた周りへの説明です。
この説明で多くの方がわかってくださいました。当たらずとも遠からず…..のたとえなのかなとおもいつつ。これで多くの人が理解してくれて、がんというものは恐ろしい見たこともない治らないようなお化けのようなものではなくて、身近にあるもので、早期発見、早期治療で治る可能性が高まるということを理解していただけたのでは?と思います。驚く人もいなくなって「なにかお手伝いできることがあったら、いってね。ご飯は大丈夫?送り迎えは?」等々すごく嬉しいお手伝いの言葉をかけていただきました。本当にありがたい限りです。病院の送り迎えの手配ができないようなことになったら、お願いしますと、助けて欲しいことなどを明確にして、おねがいしました。
さらに、保険会社からも「今はまだ免疫治療の保険カバーを認めない」忠告のメールが。
「今、あなたが免疫治療を開始しても今は保険がカバーしないからね。全て自腹で払ってね。」というのまで送られてきました。アメリカっぽいわー。これから精査するらしいということです。
看護婦さんが、保険会社と戦いまくってくれているようで私には、絶対にこの治療が必要だと説明してくださっている模様でした。
どうも治療はすぐには始まらないということがわかって、お医者さんからは、走ってもなにしてもいいといわれたので、とりあえず5kmマラソンに出場。
タイムはイマイチだったけど、走ると気持ちよかったし、走ってる間は暇なので、いろいろ考えることができて、頭もすっきりできました。
この頃はあまり自覚症状もなかったので走れたけど、今考えたら、やはり全身だるかった感じがあります。治療になると抗がん剤のように吐き気もないし、なんでもできるといわれたけど、やはりちょっとは心配しました。
<この頃にあったら、嬉しかった支援>
治療が始まるまで、どんどんガンが進んでしまうんじゃないか?大丈夫なのか?という不安がありました。けど、どうしようもないので、お友達と一緒にご飯を食べに行ったり、ガン以外の話をするのがすごく気分が紛れました。仕事のほうは、開発リーダーが抑え気味にしてくれていたので、出張などもなく、穏やかでした。
さらには、治療が始まったら、食べれないかもしれない。といって、大好きなステーキも山のように食べました。治療が始まってもたぶん食べれるよという専門家の声には「食べれたら食べれたで、その時も食べる」と言いながら、食べていました。
お酒も飲み納めと思い、お友達とどんどん飲んで、会いたい人には、次から次へとアポイントメントをとって会っていました。この時期は、会ってくれたり他愛もないことを話せるお友達がいてくれたこと、お友達が時間を取って相手してくれたことがなによりも嬉しかったです。
2017年5月10日(水曜日)濾胞性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫B細胞)の診断を受けました。ステージはⅣでした。グレードは2でした。
癌告知の日。夜中に娘が泣いていたのを見た私はまず娘に
「どうして泣いてるの?」という質問をしました。
「死なないっていうことはわかってるんだけど、やっぱり。悲しいし、不安だし。」
という回答でした。確かになー。私が子供でもそう思うわ。いやー、申し訳ないわー。
ということで、香穂にお願いをしてみた。
私は必ずこのがんは治すのだけど、治った後、自分ががんだったということは、ブログにあげます。ただの体験談で終わらせないためにも、アメリカで私と同じがんにかかった人がどのような支援があるのか?とくに親族が少なく支援が少なくなりがちな日本語を読む人のためにも、それをブログにあげたいので、私と同じ悪性リンパ腫のサポートグループをネットで探してもらえないか?受けれる支援はうけてみて、どういう風に役に立つのか?それもあげてゆきたい。サポートといっても、相談やカウンセリングのようなことは、日本人にはハードルが高い気がするし、海外でガンと戦いながら治療するというのは、孤独で凄くハード。なので、一人ではないんだ!とわかることや、お金に関することなどが一番シリアスな悩みだと思うので、そんな感じの情報がいいかな?
渡が自閉症だとわかった時も同じように、支援があることや、日々の生活等々をあげたので、同じことをしようと思う。日本に住んでいる人たちが、私の受けている支援を読んで、日本にないサービスや支援などにを作ることを考える人が出てくるかもしれないし。
と話しました。香穂は、明るくなって、
そうだよね。それがいい。私も頑張って探すわーといって、いろいろ探してくれたのがこれ。
下のリストは、私の悪性リンパ腫や非ホジキンリンパ腫に沿ったものなので、他のがんの方は、いろいろ調べてください。
とりあえず、なにか一つ支援をうけてみてください。
https://www.fifthseasonfinancial.com/blog/freebies-for-cancer-patients/
http://guide2chemo.com/freebies-cancer-patients
http://www.lifewithheidi.com/freebies-for-fighters/
http://www.lls.org/support/financial-support
https://www.cancer.org/treatment/support-programs-and-services/look-good-feel-better.html
この団体のがんのヘルプライン。
(800) 227-2345
http://www.thelydiaproject.org/
いただいたカバンはこれです。
Loveと書かれた手作りカバンで、これを毎回免疫治療にももっていきました。
https://www.cancer.org/treatment/support-programs-and-services/road-to-recovery.html
http://www.divaforaday.org/nomination-forms/
https://www.extendedstayamerica.com/acs-partnership
娘が看護師さんといろいろ話して、Lisa's Armyのアプリケーションにサインをしてもらって、パッケージが送られてきました。みかん箱2つはあるんじゃないか?という巨大な箱が自宅に送られてきて、開けた途端、涙が止まりませんでした。
送られた一部がこれ。
今回のがんで泣いたのは、この1回だけ。子供たちの寄せ書きや、みなさんからの応援のメッセージ。iPadもはいっていました。これは、免疫療法の時(きもセラピーの部屋で)毎回7時間とかかかるこの時間に漫才を聞いたり、音楽を聞いたりする時も使っていました。
http://lisasarmy.org/nominate/
http://www.wallyssmile.org/care-package-request
調べた一部をあげました。これは一部ですが、みなさんどんどんぐぐって探してください。お友達ががんだとわかったら、探してこんな支援があるよと教えてあげてください。
<この頃にあったら嬉しかった支援は下記>
上記にもあげましたが、がん患者というのは、告知を受けてから考えることは、自分が治療を受ける間の家事のこと、家族のこと、子供の学校のこと、仕事のこと等々をどうするか?を考え、それらの手続きをするので精一杯です。もっとも大事にしないといけない自分のことは二の次、三の次。なので、娘がいろいろ調べてくれて、この中の2つに、応募してくれて荷物がついた時には、本当に嬉しかったです。自分はこの世界からいなくなるかもしれないという不安感は100%消えるわけではありません。夜中やふとした時にその心配は浮かび上がってきます。やはり末期という言葉も患者本人にとっては、大変重いものです。そのような中、この世界のどこかで、がんの私を応援してくれる人がいる。それも会ったこともない子供たちや大人たちでも応援してくれているということを肌身にしみて感じた時は、本当に嬉しかったです。なので、がん患者の周りにいる方達が、サポートできるような団体を調べて、いただけるものなどのグッツなどを手配していただくといいと思います。うれしいものですので、手続きを本人と相談しながらおこなってあげるといいと思います。
以上のことは、がんになってよかった。人様の暖かさを感じたことでした。元気になったら、私のような力のないものでも社会の役にたつことがあるんじゃないか?生きねばと心から思えたできごとでした。
香穂の大学院の卒業式の日に一緒に癌告知を受けて、さて家に帰宅。香穂も予測はしていたものの、彼女はあまり病気のことを調べていない(卒業試験もあり、調べる時間ももったいないのであまり調べるなとは話ておりました)ので、ショックはうけていたみたいです。香穂には、冷静に私の思いを話しました。
「まず。私は死なない。薬もいろいろ調べてわかったけど、私は絶対に死にません。先生のところでみせていただいたPET スキャンの画像には、全身にがんがうつっていて衝撃だったけど、それは治るので、あまり視覚から入った情報に、自分を占領されないように」と伝えました。
あと私から伝えた事は、
1.就職活動はしっかり行う
2.私のがんなどとは関係なく、我が家は「働かざるもの食うべからず」なので、就職が決まるまで家にいるのなら、家事か渡の育児(というか、福祉や医療のほうの対応やプログラムの対応、送り迎えなど)を担当するか、バイトをすること。
3. 私の治療などにも立ち会うか、立ち会わないのか?なども決める
等々を話しました。香穂の希望としては、
1.就職活動で行きたいところには、全て書類をだしたけど、第一志望のところは、結果が来るまで数ヶ月かかりそうなので、その間は家で結果を待ちたい。どうしても第一志望の会社に行きたい(ソニーアニメーションスタジオでした)合格できるのは一人だから、ダメだったら、すぐにいわれると思う。とのこと。時間がかかるとしたら見込みあるかも。と考えていたようです。
2.家にいる間のお手伝いは、主に渡の身のまわりのことや、音楽のクラスにつれていくとか、ご飯を作るそういうのは担当したい。私が出る前にきちんと渡の生活を確立させておきたい。母である私の治療の送り迎えなども渡と重ならない時は、私がやりたい。心配だし、何がおこっているのかを知りたい。
というようなことを言われました。
それでお互いの今後のすべきことが決まったと安心していたんですが…。
真夜中。わたしは喉がかわいたので、リビングにいくと、彼女はリビングで、絵を描いていて、顔を見ると目を真っ赤に腫らして一人で泣いていました。流石にガンの本人の前で泣くのは憚れた模様で、一人で泣いていたわけです。あぁ。これは、かわいそうだな。たしかに母親が末期の癌だといわれて、悲しまない子供はいないだろうと思い、私は香穂にあることを頼もうと思いついたのでした…。続きは次回。
2017年5月10日(水曜日)濾胞性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫B細胞)の診断を受けました。ステージはⅣでした。グレードは2でした。
さて、表記にもある5月10日(水曜日)が来ました。朝から娘の香穂の大学院卒業式のために、サンフランシスコに向かいました。香穂と渡とで無事に卒業式に参列しました。
無事に元気に参列できて、ほっとしました。たぶん、これで子供達の卒業式というものはもうなく、母親として最後の子供の教育関係の行事になるのかな?とおもいました。この日から数日行われる学内での展覧会のようなものも、香穂の作品は代表で選ばれているので、それも母としては、嬉しい限り。
卒業式は感動でおわりました。おわってから。他のお友達が、香穂へ
「卒業式が終わったら、家族とご飯を食べに行く。バイバーーーイ!またあとで連絡するねー!!」とかもう心の底から喜んで笑顔で話しています。香穂もたくさんの友達とハグをしたり、笑顔で話しおりました。一通り友達や教授に挨拶をして、それから香穂は卒業式で来たガウンを丸めてカバンにいれて、車に乗り込み、病院に母のがんの告知を聞きに行く日になりました。渡をどうするか?は、二人で前もって相談したのですが、病院に行く前に家に置いていくことに決定。その場で渡に説明するのが大変なことと、パニックになると告知どころじゃないだろうということで、後から噛み砕いて渡にわかりやすいように話すことになりました。渡に留守番をしてもらい、香穂と聞きに行きました。あたりが真っ暗になった夕方。こんな真っ暗な時に、がんの告知をきくのは、香穂は結構つらいなー、と思いました。やはり告知は、朝に聞きたかったなーとか.. .車を飛ばすこと1時間半。自宅に渡をお留守番のために置いておき、香穂と病院に向かいます。私は「いざ鎌倉!」みたいな気分になるかな?とおもいましたが、もう論文なども読み漁って、最新の治療方法などもしっていること。卒業式にも参列できたこともあって。ものすごく穏やかな気分で病院の腫瘍科にむかいました。
病院の腫瘍科受付で自分が予約が入っているので、受診に来たことを告げると、今の精神状態を聞かれる問診票が渡されアンケートをすわって記録することを申し伝えられます。数値で自分の気持ちを伝えます。
最高にいい気分!が10で、沈んでいるが5、自殺したくなるが2とか、そんな感じの指標でした。
香穂に「私、今日卒業式に出れたし、何をいわれるかもだいたいわかってるし。質問票も全てまとめてきたし。できることは全部したので、最高に気分いいので、10かな?」といったら。
「そうねぇ…..。けどさぁ。いまからガンの告知をうけるのに、10だったら、それはそれで、あぶなくないか?9くらいにしておこうかね」「それがいいんじゃないかな?」となり、9に丸をする。
ここで、死にたいをえらべばすぐに、すぐにガンの専門のナースや心理関係の人がつくんだ、マンツーマンでつくんだとおもう。
他には、安全に治療がうけられるか?こまっていることはないか?送り迎えは大丈夫か?虐待はうけていないか?家族内に治療を妨げることはないか?等々の質問に答える問診票でした。全ての準備や手配は全ておわっているので、問題はなにもないという問診票を提出。
しばらくすると病院の待合室にナースがやってきて、名前が呼ばれました。診察室にたどりつくまでに、長い廊下を歩くと両側にたくさんある各診療室から、家族や患者さんのすすり泣く声や、大声が聞こえます。こんな夜にきているということは、ガンの告知をうけているのでしょう。それも結構みなさん重度段階かもと思いました。
「えっーこれ、シビア…」
と思いながら、自分たちの診察室で先生がくるのを待つことに。ただ、この時には、もう2週間、必死で血液のがんのことに関しては調べまくり、質問はバインダーにまとめて持って箇条書きにして持ってきているので、私としては、できることは全てしたという気持ちで余裕でした。いろいろな治療薬があると知っていたからです。香穂は香穂である程度の覚悟はしていた模様ですが。香穂は、明日から、もう宿題もないわけで、就職もまだ決まっていなかったので、当分は母の介護をしたいと思っていた模様でです。
渡の面倒もみないといけません。
診察室で待っていたら、先生が入室。私たちのいる部屋の空気がものすごく明るいのに、ちょっとおどろいた感じもしていましたが、すぐにこの明るい空気に先生も乗ってきて、握手をしてすぐに検査の結果を告げらました。
「悪性リンパ腫で、非ホジキンリンパ腫のB。今のところは、ステージはⅢになるけど、骨をしらべてないので、骨まで浸潤していたらⅣ。血液のがんなので、すでに全身にひろがっています。ただ、このがんは普通のがんとは、ちょっと違い、Ⅳになってから治療しても助かる人が多いとのこと。整理してみると言われたことは下記のような感じ。
1.悪性リンパ腫という血液のがんの中の種類は、濾胞性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫B細胞)だということが告げられました。
2. 末期まで待って治療するとこともできるというチョイスもありますといわれました。けど、末期かどうか?は、骨にまでがんが浸潤しているかどうか?も加味せねば成らず、骨をけずり取る生検はこれから行う。これは、もう確実に行うことが決定。
3. 薬はいろいろ種類がありますが、immunotherapy(免疫療法)をまずは行う。6割の人がこの薬が効きます。なので、薬が効かない4割に私が入ったとしても、まだまだ薬はいろいろあるので、試す機会がある。免疫療法は、髪の毛も抜けず体に負担もすくない。
4.稀に投与する薬に重篤なアレルギーが出る場合がありますが、その時は、ナースがついているので、抗ヒスタミンを点滴薬の中にいれるので、心配ない。万が一この薬きかなくても、他に薬はある。
5.入院はしない。通院で免疫治療を開始します。
6.骨の生検をした後に、治療を開始をきめるか?今決めるとしたら、保険が効くかどうか?を確認してから、準備をして始めるので、少し時間がかかるかな?
などでした。
<ここからの私が感じたことと、先生に伝えたこと>
1.告知について。
告知された瞬間は、ビンゴ!だと思いました。この日にこの病室に来る前に、死ぬほど学会論文などを調べておいて、質問表も用意しました。ほんと
万歳です。この上の字をクリックするとリンクにとびます。英語で探すと最新の情報がとれます。これが今日になってやっと報われるというか、生きてきました。濾胞性リンパ腫の非ホジキンリンパのBだと進行が他のがんより遅いこともわかっていたので、今日や明日に死ぬことがないのもわかっていました。最悪でも半年は持つのでは?半年あれば、子供達に色々なことができるという推測もありました。とりあえず、ほっとしていました。
2.治療開始について
今回の検査の中で、骨の生検が一番怖かったです。とにかく私は注射ということが大嫌い。注射した上に骨まで取られて、お金まで取られるとか、わけわからんし…。みたいな。
けど、先生からは、「治療、頑張れるかなぁ….。」といわれて、はたと気がついた。余裕だ。自閉症の渡を育てている私の人生に比べたら、がんの治療はまだマシだということ。渡に何かしてもらおうとしたら、まずは渡に理解してもらって、渡自身にやる気になってもらわないといけません。そこからさらに周りの理解と支援をもらって環境を作る。それから母と渡の二人がリードをとりながら、周りにも手伝ってもらって周りを巻き込んで頑張らねばなりません。けど、このがんの検査や治療というのは、すでに病院という環境があり、専門医がいて、親友たちには話してあるので、支援者はすでにいます。あとは頑張るのは私だけです。「なんて楽ちんなんだろう!」と思ったら、私は笑いがこみ上げてきました。先生がちょっと「おかしくなったか?」と心配されたようなので、説明しました。
「先生、私には自閉症の23歳になる息子がいます。これまで一生懸命育ててきました。彼に何かしてもらう時は、彼自身に理解をしてもらって、やる気になってもらって、私や周りがいろいろお膳立てして励ましながらみんなで協力してやってもらう感じで、母としても毎日が必死でした。けど、このがん治療って、先生はもう治療なさってくれると決めているし、病院も全て準備してくださるわけだし、あとは私ががんばればいいだけなんですよね?先生が治療してくれるんだったら、もうこれ簡単かも…と思ったので、そしたらシビアに考えていた私が笑えてきた。」といったら、先生大ウケ。
「そうだね。あなたの子育てよりは、比較にならないくらい楽だよ。」とニコニコと言われました。
4. 保険が効くかどうかをナースの方達が調べてくれます。それから治療なので、まってもらわなといけないといわれました。
アメリカは自分が持っている保険によって効くかきかないか?が決まります。なので、大きな治療の前は保険カバーを何%するか?ということを明確にしないと、医療 破産がやってきます。なので、保険が効くということがわかってからの治療になるので、治療開始がいつか見えないということになりました。
以上が大体の話したことです。
最初に打つ薬の名前が日本でいうリツキサン。アメリカではリツキシマブといいます。最初に飲む薬を何ヶ月も服用し、体を薬をうけいれられるようになってから、通院して、リツキサンを投与します。投与の回数は最初の4回は、毎週。それから2週間ごとに2回。最後が1ヶ月ごとに2回になります。飲み薬のほうは、結構副作用が強いので、なにかあったら、とにかくすぐに連絡することといわれました。
これがこの日の病院で行われた説明でした。さてこの帰宅後のことは、後日記載です。
今、日本にきているので...。