自閉症 渡の宝箱

自閉症の渡が、日々起こす騒動や療育についてとシリコンバレーでの起業、生活を綴っています。

6.私が悪性リンパ腫(血液のがん)の告知を受けた日のこと。お医者さんからの告知の日。

2017510日(水曜日)濾胞性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫B細胞)の診断を受けました。ステージはでした。グレードは2でした。

さて、表記にもある510日(水曜日)が来ました。朝から娘の香穂の大学院卒業式のために、サンフランシスコに向かいました。香穂と渡とで無事に卒業式に参列しました。

無事に元気に参列できて、ほっとしました。たぶん、これで子供達の卒業式というものはもうなく、母親として最後の子供の教育関係の行事になるのかな?とおもいました。この日から数日行われる学内での展覧会のようなものも、香穂の作品は代表で選ばれているので、それも母としては、嬉しい限り。

卒業式は感動でおわりました。おわってから。他のお友達が、香穂へ

「卒業式が終わったら、家族とご飯を食べに行く。バイバーーーイ!またあとで連絡するねー!!」とかもう心の底から喜んで笑顔で話しています。香穂もたくさんの友達とハグをしたり、笑顔で話しおりました。一通り友達や教授に挨拶をして、それから香穂は卒業式で来たガウンを丸めてカバンにいれて、車に乗り込み、病院に母のがんの告知を聞きに行く日になりました。渡をどうするか?は、二人で前もって相談したのですが、病院に行く前に家に置いていくことに決定。その場で渡に説明するのが大変なことと、パニックになると告知どころじゃないだろうということで、後から噛み砕いて渡にわかりやすいように話すことになりました。渡に留守番をしてもらい、香穂と聞きに行きました。あたりが真っ暗になった夕方。こんな真っ暗な時に、がんの告知をきくのは、香穂は結構つらいなー、と思いました。やはり告知は、朝に聞きたかったなーとか.. .車を飛ばすこと1時間半。自宅に渡をお留守番のために置いておき、香穂と病院に向かいます。私は「いざ鎌倉!」みたいな気分になるかな?とおもいましたが、もう論文なども読み漁って、最新の治療方法などもしっていること。卒業式にも参列できたこともあって。ものすごく穏やかな気分で病院の腫瘍科にむかいました。

病院の腫瘍科受付で自分が予約が入っているので、受診に来たことを告げると、今の精神状態を聞かれる問診票が渡されアンケートをすわって記録することを申し伝えられます。数値で自分の気持ちを伝えます。

最高にいい気分!が10で、沈んでいるが5、自殺したくなるが2とか、そんな感じの指標でした。

香穂に「私、今日卒業式に出れたし、何をいわれるかもだいたいわかってるし。質問票も全てまとめてきたし。できることは全部したので、最高に気分いいので、10かな?」といったら。

「そうねぇ…..。けどさぁ。いまからガンの告知をうけるのに、10だったら、それはそれで、あぶなくないか?9くらいにしておこうかね」「それがいいんじゃないかな?」となり、9に丸をする。

ここで、死にたいをえらべばすぐに、すぐにガンの専門のナースや心理関係の人がつくんだ、マンツーマンでつくんだとおもう。

他には、安全に治療がうけられるか?こまっていることはないか?送り迎えは大丈夫か?虐待はうけていないか?家族内に治療を妨げることはないか?等々の質問に答える問診票でした。全ての準備や手配は全ておわっているので、問題はなにもないという問診票を提出。

しばらくすると病院の待合室にナースがやってきて、名前が呼ばれました。診察室にたどりつくまでに、長い廊下を歩くと両側にたくさんある各診療室から、家族や患者さんのすすり泣く声や、大声が聞こえます。こんな夜にきているということは、ガンの告知をうけているのでしょう。それも結構みなさん重度段階かもと思いました。

「えっーこれ、シビア
と思いながら、自分たちの診察室で先生がくるのを待つことに。ただ、この時には、もう2週間、必死で血液のがんのことに関しては調べまくり、質問はバインダーにまとめて持って箇条書きにして持ってきているので、私としては、できることは全てしたという気持ちで余裕でした。いろいろな治療薬があると知っていたからです。香穂は香穂である程度の覚悟はしていた模様ですが。香穂は、明日から、もう宿題もないわけで、就職もまだ決まっていなかったので、当分は母の介護をしたいと思っていた模様でです。

渡の面倒もみないといけません。

診察室で待っていたら、先生が入室。私たちのいる部屋の空気がものすごく明るいのに、ちょっとおどろいた感じもしていましたが、すぐにこの明るい空気に先生も乗ってきて、握手をしてすぐに検査の結果を告げらました。

「悪性リンパ腫で、非ホジキンリンパ腫のB。今のところは、ステージはになるけど、骨をしらべてないので、骨まで浸潤していたら。血液のがんなので、すでに全身にひろがっています。ただ、このがんは普通のがんとは、ちょっと違い、になってから治療しても助かる人が多いとのこと。整理してみると言われたことは下記のような感じ。

 

1.悪性リンパ腫という血液のがんの中の種類は、濾胞性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫B細胞)だということが告げられました

 

2. 末期まで待って治療するとこともできるというチョイスもありますといわれました。けど、末期かどうか?は、骨にまでがんが浸潤しているかどうか?も加味せねば成らず、骨をけずり取る生検はこれから行う。これは、もう確実に行うことが決定。

 

3. 薬はいろいろ種類がありますが、immunotherapy(免疫療法)をまずは行う。6割の人がこの薬が効きます。なので、薬が効かない4割に私が入ったとしても、まだまだ薬はいろいろあるので、試す機会がある。免疫療法は、髪の毛も抜けず体に負担もすくない。

 

4.稀に投与する薬に重篤なアレルギーが出る場合がありますが、その時は、ナースがついているので、抗ヒスタミンを点滴薬の中にいれるので、心配ない。万が一この薬きかなくても、他に薬はある。

 

5.入院はしない。通院で免疫治療を開始します。

 

6.骨の生検をした後に、治療を開始をきめるか?今決めるとしたら、保険が効くかどうか?を確認してから、準備をして始めるので、少し時間がかかるかな?

 

などでした。

 

<ここからの私が感じたことと、先生に伝えたこと>

 

.告知について。

告知された瞬間は、ビンゴ!だと思いました。この日にこの病室に来る前に、死ぬほど学会論文などを調べておいて、質問表も用意しました。ほんと  

Google Scholar

 万歳です。この上の字をクリックするとリンクにとびます。英語で探すと最新の情報がとれます。これが今日になってやっと報われるというか、生きてきました。濾胞性リンパ腫の非ホジキンリンパのBだと進行が他のがんより遅いこともわかっていたので、今日や明日に死ぬことがないのもわかっていました。最悪でも半年は持つのでは?半年あれば、子供達に色々なことができるという推測もありました。とりあえず、ほっとしていました。

 

.治療開始について

今回の検査の中で、骨の生検が一番怖かったです。とにかく私は注射ということが大嫌い。注射した上に骨まで取られて、お金まで取られるとか、わけわからんし。みたいな。

けど、先生からは、「治療、頑張れるかなぁ….。」といわれて、はたと気がついた。余裕だ。自閉症の渡を育てている私の人生に比べたら、がんの治療はまだマシだということ。渡に何かしてもらおうとしたら、まずは渡に理解してもらって、渡自身にやる気になってもらわないといけません。そこからさらに周りの理解と支援をもらって環境を作る。それから母と渡の二人がリードをとりながら、周りにも手伝ってもらって周りを巻き込んで頑張らねばなりません。けど、このがんの検査や治療というのは、すでに病院という環境があり、専門医がいて、親友たちには話してあるので、支援者はすでにいます。あとは頑張るのは私だけです。「なんて楽ちんなんだろう!」と思ったら、私は笑いがこみ上げてきました。先生がちょっと「おかしくなったか?」と心配されたようなので、説明しました。

「先生、私には自閉症の23歳になる息子がいます。これまで一生懸命育ててきました。彼に何かしてもらう時は、彼自身に理解をしてもらって、やる気になってもらって、私や周りがいろいろお膳立てして励ましながらみんなで協力してやってもらう感じで、母としても毎日が必死でした。けど、このがん治療って、先生はもう治療なさってくれると決めているし、病院も全て準備してくださるわけだし、あとは私ががんばればいいだけなんですよね?先生が治療してくれるんだったら、もうこれ簡単かもと思ったので、そしたらシビアに考えていた私が笑えてきた。」といったら、先生大ウケ。

「そうだね。あなたの子育てよりは、比較にならないくらい楽だよ。」とニコニコと言われました。

 

4. 保険が効くかどうかをナースの方達が調べてくれます。それから治療なので、まってもらわなといけないといわれました。

 アメリカは自分が持っている保険によって効くかきかないか?が決まります。なので、大きな治療の前は保険カバーを何%するか?ということを明確にしないと、医療 破産がやってきます。なので、保険が効くということがわかってからの治療になるので、治療開始がいつか見えないということになりました。

 

以上が大体の話したことです。

最初に打つ薬の名前が日本でいうリツキサン。アメリカではリツキシマブといいます。最初に飲む薬を何ヶ月も服用し、体を薬をうけいれられるようになってから、通院して、リツキサンを投与します。投与の回数は最初の4回は、毎週。それから2週間ごとに2回。最後が1ヶ月ごとに2回になります。飲み薬のほうは、結構副作用が強いので、なにかあったら、とにかくすぐに連絡することといわれました。

 

これがこの日の病院で行われた説明でした。さてこの帰宅後のことは、後日記載です。

今、日本にきているので...。