自閉症 渡の宝箱

自閉症の渡が、日々起こす騒動や療育についてとシリコンバレーでの起業、生活を綴っています。

アメリカのゴミ屋敷から見つかった上野の不忍の池にある寛永寺の書。その2 完結編

我が家の近くのゴミ屋敷から見つけた昭和10年寛永寺の住職の書画の続き。前回の話はこちら→寛永寺の書。その1

サンフランシスコ空港で、万が一、JALに荷物として乗せることができない場合は、会社に持ち帰ってもらって、再度日本への送り方を考えましょうということで、開発リーダーがサンフランシスコ空港まで送ってくれました。チェックインカウンターで、ドキドキしておりましたが、JALさんのほうで、さらに頑丈に梱包をしてくれるということで胸を撫で下ろしておりました。

問題は、羽田から寛永寺までの送り。書画がサイズオーバーのため、宅配便の料金がかかる。まぁ、これはしょうがないかーと思っていたら、これまたFacebookで事情を知っている方が、お会いした時に、

日本発行のJAL カードをもっていれば、500円で国内の荷物を送れる。

ということを教えてくださいました。アメリカで、一度でもいいので日本発行のJALカードでなにかを購入し(スタバのコーヒーでもいいわけで)、そのレシートをみせればいいみたいです。12月と1月はゴールドカードの方は、100円の模様。500円で送ってもらえるリンクはこちら。→500円で空港から自宅まで荷物を送ってもらえる。

さて、羽田到着。上記のことからABCの宅配カウンターに直行。無事に500円で額装されたお手紙が寛永寺につくことがわかり、送ってもらうことに。

ひとまず、任務を終えた私はほっ。

それから、大阪で事務仕事を終えた私は、実家にも立ち寄らず、そのまま中京大学の講演会へと向かいました。

名古屋に数泊してから、大阪に戻り、30年ぶりに大学時代の自転車部の先輩、後輩と飲み会。

(この件は後ほど上げます。)

それから実家へと向かうと、なんと寛永寺から、お手紙がついておりました。

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驚きです。執事長の方から

寛永寺は、太平洋戦争の空襲で、寛永寺に残るものは少なく、貴重なものであること

をお手紙で知らされました。

そんなこんなで、どうしても寛永寺にお参りしたくなった私。上野に寄るとしたら最終日しかありません。

私が羽田からサンフランシスコに向かう便は、夜7時45分発。

大阪からの国内線は、羽田に夕方4時に到着予定です。これを午前に変更できれば、余裕で上野の寛永寺にお参りができる計算です。

おぉぉ。できるかも。

実家の父とはギリギリまで一緒に話していたかったけど、父とも話して、寛永寺に行けるのなら行った方がいいととなり、出発2日前に、早速JALに国内便だけの変更が可能か?と電話。JALの方は電話口で、

もしわけございません。その前の便はあいにくどれも満席で。

やはり、そうでしょう、そうでしょう。と思う私。ところが突然JALの電話口の方が

えっ。えっ...。少しお待ちください。早い便がいま、キャンセルが入りました。1時間前のでしたら、乗れます。

いや、1時間早まっても、上野までは寄れない...。

ありがとうございます。私は上野まで行きたかったので、1時間では、行って空港まで戻るのは無理ですので、午前の便でないと無理です。もうしわけないですが..。いろいろお手数をおかけしました。

というと、さらにJALの方が電話口で慌てる声が...。

久保様、いま朝の便に空席が1席出ました!

すぐに抑えていただいて、帰米日の朝10時45分に羽田に満席の飛行機から降り立つ私。

無事に上野の寛永寺に向えました。お友達が寛永寺に伺った時から、対応してくださっている執事の宮部さんと面会できました。

寛永寺のいろいろな歴史を伺いました。

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宮部さんはお父様も寛永寺の僧正でおられたために、(寛永寺は、この近くの東京の19のお寺を門下にいれていて、その統括しているお寺の模様)私がお手紙を発見した大多喜守忍大僧正のお手跡のものは、ご自宅に飾られていたそう。宮部執事はこんな方。

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それがいまでは、存在そのものも貴重なものになってるとのこと。なので、私のお友達が寛永寺に「アメリカでお手紙を見つけて..」という話を持って行った時には、アメリカでそのようなものが見つかるわけがないのでは?と、思ったそうですが、私のお友達が写真を見せたので、すぐに本物だとわかったそうです。

寛永寺には、6人の徳川将軍が眠りますが、最後の将軍は幕末のころ寛永寺の葵の間に謹慎されたそうです。江戸時代は現在の上野公園は全て寛永寺のお寺の敷地だったそうです。けど明治維新で政府から戻された分が現在の土地だけだったそう...。

私が手にいれたお手紙を書かれた大多喜守忍大僧正はこんな方だそうです。

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手紙は、60歳代の時にかかれたものだそうです。

とにかく情熱的なお方だったらしく、弟子さんたちへは本当に面倒見よく、地域の人たちにも情が厚く、信望を得ていたそうです。愛弟子のお一人は大正大学の学長までつとめ、多くの僧侶を世に排出されたそうです。すごい。

御本尊もお参りさせていただいて、多くの方のネットを使った支援のおかげで、ゴミ屋敷のブルドーザーの被害にあうところだったお手紙が無事にお寺に戻せたことを本当に嬉しく思いました。寛永寺の方によると歴史的なものが世界のどこかで見つかったとしても航空会社は、運ぶことを嫌うことが多いので、日本の手元に戻ることは非常にすくないそうです。なぜか?というと運搬中に壊れたりしても、保証もなにもできないのでそれなら、最初から断るというのが常のようです。JALさんの男前の対応に感謝です。

Facebook、すごい。ネット万歳。日本人の思いやりってすごい!皆様ありがとう!

ということで、ここに、おおくのご協力をいただいたかたにお礼を申し上げます。

寛永寺は、国民の平和を願いそれを守ることを一番に考える開かれたお寺だそうです。皆様、上野の行かれた際は、

あぁ、こんなお寺もあるんだなーと。

と思いを馳せてお参りくださいませ。

不行き届きものゆえ、信仰心がほぼない私でも感動の寛永寺へのお参りでした。皆様もぜひどうぞ。静かでとてもいいところでした!密かな都心のデートスポットでもあるそうです(笑)