春が近くなって来ています。春先に、「自閉症です」
という診断を受ける人が多く感じるのは、気のせいなのかもしれません。けど、なぜか相談が多いのも事実です。
なので、私が渡の診断をうけた時のことについて書いておきます。
私は、現在までの14年間、自閉症の母親っていうのをやってきました。これからもこれはやり続けます。(もちろんですが)
私は、渡が1歳の誕生日前から自閉症を疑いました。決定打は、渡が自分のお誕生日のローソクを吹き消さなかったこと。当時毎月1回~2回の割合で、友達の誕生日会にでていたのだけど、渡の友達は我れ先にと自分の誕生日じゃないのに、ろうそくを吹き消そうと戦いになりました。しかし渡だけは興味がなかった。
それまでも、ご近所の老夫婦から、”シリアスguy"というニックネームを頂いたりして、笑わない子供だなー。と思っておりました。
1歳4ヶ月の時までにいろいろ調べまくって私なりに確証を得て、1歳半でやっと病院につれてゆきました。
連れて行くのが遅れた理由は、
「渡は、なにかの発達の遅れがあると思う。私は、自閉症を疑っている。」とパパに言ったらパパが
「お前は頭がおかしい。こんなに小さい自分の子供を自閉症だって呼ぶ人はいない。病院に行ったら、母親が頭がおかしいと思われるので行くな。」
と止められていたからです。(そりゃそうだ。私とパパでは、渡につきあってる時間がまったく違う。彼にわかってもらおうというのは、お門違い。)
1歳半の時にパパが、台湾出張の飛行機に乗った瞬間に渡の主治医に電話して
「実は、ちょっと渡の発達の件で相談したいことが。。」
といつもお世話になってる病院に話しました。
受付の方が、すぐに看護婦さんにつないでくださいました。
彼女が
「じゃ、ゆっくり話をききたいのでお昼休みの時間に来てください。」
と言われて、昼休みに伺ったときにその看護婦さんに
「あのぉぉ・・・お医者さんじゃない私がこういうことを言ってはいけないのは重々承知しているのですが、話がわかりやすいように言いますが、私はこの子は自閉症だと思います」
と言いました。この看護婦さんは、この日から10年後にお会いしてお話した時に
「あの時は、私はあまりにびっくりして、あの時にあなたが着ていた服も渡の服も、渡を抱えてやって来たときの状況も全てまだ覚えている。」
とおっしゃっていました。
ここからいろいろあって、(専門医が少なかったので、予約で待たされたり。小児精神科のドクターショッピングをしても誰も診断をくれなかったり・・)
2歳になったときに専門病院で、晴れて?自閉症の診断をもらえたわけですが、言葉が遅かったこともあり、1歳の時にすでに養護学級には、通わせていただいておりました。
診断が降りたときっていうのは、ほとんどのお母さんは、「悲しい」と思われるようですが、私の場合は1歳半で自分の中で、確証を得ていたので半年間
「なぜ医者達は、この子の自閉症がわからないんだろう?」
と怒りのほうが先にあり、
「こういう医者は、医師免許を返納させるべきだ」
とか、怒ってばかりでした。けど、これは周りの誰も渡の自閉症を認めてくれなかったことで、孤立感があったことも大きくあると思います。
診断を受けたときは、
「あぁ。これで、この半年でいろいろ調べたことを渡にしてあげることができる。」
という安堵感が一杯でした。
この頃にすでにTEACCHプログラムや、ABA(当時は行動療法といってました・・。懐かしい)を探り当てていたのですが、これを自閉症じゃない子供にすると、どういう影響があるのか?というのを書いてある本がみつからなかった・・。もちろんだけど・・。なので、やっていいのか?どうなるのか?がわからずに、もやもやしておりました。
反対にパパは嘆き悲しみ、これが普通の親のリアクションだよな・・・。と冷めた目で見ていたのも事実。この頃から、
「私は、子供の障害が悲しいという事ではこれからも泣かないのだろうなぁ。さめた母親だよなー。」
と思っておりました。
この当時とても不思議だったことは、泣くパパ。
未診断のきのうの渡と診断を受けた日の今日の渡は同一人物です。産まれたときに、喜ばれた渡も現在自閉症の渡も同一人物です。なのに、こんなに親の反応が変わってしまっては、渡も困るだろうなーと不思議に思ってました。(←今、思うと、なんとなく、あぁこういう気持ちから、パパは悲しんだんだろうな。という悲しむ気持ちもわかって来たという変な親なんだけど。不安が先にたっていたんだと思う。)
たぶん私が悲しまなかったのは、自閉症児の成功例を多々聞いていて、知っていたこと。
私の住むベイエリア地域で有名なトリマーで、半年以上先まで予約がとれない人は、自閉症です。
ベイエリアで有名なピアニストも自閉症だったし、a○&t本社から、パパの会社が表彰された時、同じく個人技術賞で会社全体で、一人だけが選ばれる最優秀技術者人は、式の間中ずっと飛び跳ねていた自閉症でした。
IB○でも自閉症の技術者が活躍してる・・。等々の情報と成功例を知っていたから。
あと私の自分でのモットーでもある毎日楽しければ将来は楽しい。ということだと思います。
人間の将来は、突然風にのってやってくる訳ではありません。毎日の積み重ねが将来です。
パパは、渡の将来をとても心配していたけど、私は、香穂の将来も心配していないのに、渡だけ心配するのにもなんか、違和感がありました。
ただ、毎日楽しければ、20歳の時に辛いことが突然やって来たとしても、
「けどさー。渡、あんたの今日までの人生、結構楽しかったんじゃないの?」
と言える人生を送ろうと思っていたことです。
現在14才の渡ですが、とにかくご機嫌!毎日楽しい!!!の日々をまだ、送り続けています。
診断をうけて間もない方で、このブログにお越しの方、何が悲しいのか?を探り当ててゆけば、その心配って他の子供には、あまりしないものなんです。他の子供にもしないことを自閉症の我が子にだけするっていうのも、なんか、ちょっと違和感かもなー。特別扱いかもなー。と引いてみてみると、少しは気が楽になるかもしれません。
ところで、うちの香穂が中学校の時の授業で、
”脳障害を治す劇的な手術ができたとして、その手術をメンタルな遅れがある子供は、強制的に受けるべきか?”
というディスカッションの授業がありました。クラスのほとんどが受けるべきという判断をし、香穂は一人で、
「受けない」
という意見を言い続けたことがあります。それは、
「もしこの世が自閉症だらけになったら、自分が普通と信じていた人は、普通じゃなくなるわけだ。で、自分が他の人に、あんたはかわいそうだから、頭切って、自閉症になる手術受けなよ。って言われたら、私は絶対に嫌だ。だって私は、手術は怖いし幸せだし、別に生活に困ってない。たしかに、世の中が自閉症だらけだと不便なことはあるだろう。けど、自分の楽しかった思い出も無くなってしまうんだ。自分が嫌なことを人に強制したくない。」
と言ったそうです。数名が香穂の意見に賛成し、ディスカッションは、延々と続き、クラスが終わる頃には、半分の生徒が
「手術は強制すべきでない。」
というふうに意見がかわったそうだ。
一つのリンゴをみても各々が
「おいしそうだな」とか、
「これ、青森のかな?」
とか
「今お腹いっぱいで、入らないなぁ・・。」
というように、思うことが違うように、障害に対しても各自が思う事が全員一致はあり得ない。
けど、いつまでも嘆き悲しむことばかりもしてられません。
不便は不便だけど、すくなくてもうちの渡本人に対しては、渡自身は、
「<僕はかわいそうだ。みんな僕に同情してくれ。>って思っているだろうか?もし自分が渡の立場だったら、同情されたいだろうか?」
ということを渡と自分の立場を置き換えて、考えてみました。
こういうシュミレーションをしてみるのもいいかもしれないな。と思います。
診断を受けた方で、悲しまれるかたは、思いっきり泣くというのもいいと思います。けど、子供が20歳になるまで毎日泣き続ける訳にはいかないので、すこしづつでも、自分が子供の立場にたってみると、先が見えてくると思います。たぶん、毎日泣いて悲しむお母さんが好きという子供さんは、いないと思うよ。おもいっきり泣いたら、涙の向こうに見えてくるものがあると思います。